ゆとりターミナル

始発から終点へのモーフィング

空っぽの鞄


私はよく空っぽの鞄を持ち歩いている。正確には持ち歩いていたと言うべきか。何か持っていないとなんとなく落ち着かない性分であり、また手ぶらで出歩くことになんとなくきまりの悪さを感じるからである。かといって、ないと困るというほどのたいそうなものではない。もし家に忘れてきてしまっても何も問題はない。それは決して人に見せびらかすようなものではないため、落ち着いた配色でシンプルなデザインをしていた。
さて、私がこの空っぽの鞄を持ち歩くようになったのは、高等学校に入学して間も無く、ちょうど今から十数年前の六月ごろだ。初めはこんな馬鹿馬鹿しいものが一体何の役に立つのだと、鏡の向こうの自分を指差して嘲笑するほどだったが、それから間も無く、これの持つ素晴らしい効果に魅せられ、常に持ち歩くようになった。というのも、同じく空っぽの鞄を持ち歩く人間がいたのである。それも一人や二人ではなく大勢だ。インターネット上にもそうした人間は数多くいるようで、その行為が何ら恥ずべきものではないという事を他者を通じて確認し、同志らと交流を深めるまでに至った。それからしばらくの日々は私の生きた人生のうちで最も享楽的で、最も怠惰な時間だったように思う。
ある日、当時親交の深かったQという男が、まるで初対面の相手に尋ねるように「君の持つ鞄の中身はなんなんだ?」と聞いてきた。鞄の中身が空であることを知っている友人から、まさかこのようなことを聞かれるとは思ってもみなかったので、私はひどく動揺した。なんでも、こうした問いかけが流行しているらしかった。人の鞄の中身を問いただしたり、こうあるべきだなどと理想像を押し付けたりする者もいたほどだ。日夜、空っぽの鞄の中身について議論し、それをめぐる争いまで起きた。私はこの空っぽの鞄の中身論争にひどく嫌気がさしていたが、これまでの楽しかった日々を思い出すたびに「私にはこれしかないのだ」という気持ちが沸き起こり、いつまでもそれを手放せないでいた。
しかし二十二を越えた頃から、私の持つこの鞄が空っぽであることを皆に見透かされているような気持ちがおこりはじめた。友人に街中でばったり出会ったときには、空っぽの鞄をどこかに捨ててしまいたいという感情に駆られた。そうして私はかつては信仰し、没頭し、敬愛した空っぽの鞄に違和感すら覚えるようになってしまったのだ。毎晩耳元で、「君の持つ鞄の中身が一体何なのか、いやそもそも中身なんてものがそこにあるのかどうかさえ知らないが、いい加減そんなものを持ち歩くのはやめなさい。」と囁く声が聞こえるのだ。そうした杞憂ともとれる些細な感情の乱れから、空っぽの鞄を持ち歩くことに痛烈な恥ずかしさを覚えるようになり、私はついにそれをやめてしまった。
その日を境に、私は鞄の中に様々な荷物を詰め込むようになった。いつ誰にその中身を見られても恥ずかしくないように、ノートパソコン、ミネラルウォーター、著名な作家の本、折り畳み傘、ハンドタオル、重要な書類、など、平凡や典型という言葉を具現化したようなものをできる限り詰め込んだ。いつの間にか鞄はパンパンに膨れ上がり、私をひどく疲れさせるようになった。しかしそれでよかった。手持ちの荷物が少しばかり重たいという穏やかな不幸に足首くらいまで浸かりながら、日々を過ごす方がずっと気持ちが良かった。そうして私は空っぽの鞄を無くしてしまったのである。
趣味とは空っぽの鞄のようなものだと思う。空っぽの鞄だけを頼りに歩き続けることはとても難しい。